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2006年08月31日

建築の外皮

建築の本質のひとつに「内と外の境界をつくる」ことがありますが,その意味でフランス人建築家ジャン・ヌーベルはたいへん秀でた存在です.
アラブ世界研究所外観
画像はフランス・パリにある「アラブ世界研究所」です.アラブ文化というとイスラム教ですが,そのイスラム建築に特有の装飾をカメラレンズの絞りに似た機構でなぞっています.

アラブ世界研究所内観
これが内部から見たディテールです.本来はこの絞りの機構によって外部からの光量の調節をするはずだったようですが,ハイテクすぎて故障がちであまり機能していないようです.でも,純粋に美しいし,古典的なデザインを現代のハイテクに置き換えて再現しようとする発想そのものがとても斬新で感動しました.
アラブ世界研究所全景
建物全体はこのようにいたってシンプルな形態です.

日本で見ることのできる彼の建築が東京・汐留にある電通の社屋です.
電通社屋
セラミックプリントという手法によりグラデーションのかかったガラスのファサードは,陽の差し方によって見え方が微妙に変化します.建築の外皮を美しく見せることのできる建築家です.

2006年08月28日

間接照明

建築家・吉村順三のことばに「欲しいのは光であって,照明器具ではない.」[講演対話シリーズ=住宅を語る 吉村順三]というのがあります.この考えを突き詰めると,造作の一部に光源が隠れる間接照明となるかと思います.
SG邸廊下の間接照明
画像は廊下の片側いっぱいに設けた収納の上下に間接照明の蛍光灯を設けた例です.突き当たりは玄関の下駄箱です.間接照明だけだと,収納の扉を開けたときに中が見えにくいので,天井にもダウンライトが設置してあります.画像はすべての照明がついた状態で撮影してますが,間接照明だけつけると,収納の扉と床と天井の間だけから光がもれて,なかなかいい雰囲気になります.

OY邸玄関の間接照明
これは玄関の式台の下に間接照明を設けた例です.ちょっと広めの土間に足下から光が広がるようにしました.
枕元灯
最後はベッドの頭がくる部分の枕元灯を間接照明にした例です.すり板ガラスのカバーの下に電球色の蛍光灯が入っています.
もちろん,照明器具の中には私も好きなポール・ヘニングセンのものなど素晴らしいデザインと配光のものが沢山ありますが,あまり照明器具のデザインが出しゃばるのは,好みではありません.さりげなく,すっきりシンプルなデザインのもの,素材の良さが感じられるもの,つまりは光が主役になる器具が飽きがこなくていいように思います.

今日は月曜塾の例会日でしたが,久々に若い人の入会がありました.それだけでも私にとってはとても幸せな夜になりました.

2006年08月26日

屋内プール

今年の夏はプールで痛ましい事故があり,ずいぶん整備が強化されたようです.
雲の上のプール内観
画像は高知県の梼原町というところにある「雲の上のプール」です.平成10年に北海道木質構造開発協議会の活動で,全国の木造建築を視察に行った際,見に行きました.小屋組が張弦梁を採用した木造でできています.一般に屋内プールというと鉄骨造の寒々としたイメージですが,このプールは建物全体で地場産の杉が使われていて,とても温かい雰囲気でした.

雲の上のプール外観
「雲の上のプール」というネーミングですが,まさしくその通りで,雲海の上の山の中に忽然とあるといった感じです.そのせいか私たちが見学にいった夕方も,街中の普通のプールなら勤め帰りの人たちが泳いでいそうな時間帯ですが,画像のように誰も泳いでいませんでした.
雲の上のホテル
このプールに隣接して隈研吾氏の設計による「雲の上のホテル」があります.こちらのまるで飛行機の翼のような屋根も木造でできているのですが,正直に言って木造で作った意味があまり感じられなくて残念でした.
釧路市鳥取温水プール
最後は私がいつも泳いでいる釧路市の「鳥取温水プール」です.
建物はいたって普通の屋内プールです.残念なのはエントランスの部分がタイル貼りなのですが,冬期間はすべってとても危険だと言うことです.冬の間はいつもカーペット状のものを敷いてすべらないようにしていますが,どうしてあんなすべるタイルを採用したのかと思います.
いつか,50mの長水路のプールで泳いでみたいと思っています.調べてみると北海道ではたぶん札幌の平岸プールと,道立野幌運動公園のプール,それと函館市民プールの3ヶ所のようです.

2006年08月23日

浪花町十六番倉庫

釧路の浪花町十六番倉庫古いレンガ倉庫を文化施設に保存・改修した建物です.NPO「浪花町十六番倉庫」により運営されています.早いもので今年で運営7年目となります.
浪花町十六番倉庫外観
この倉庫の改修にあたり,私は月曜塾の一員として深く関わることになりました.1998年からの2年あまりの期間です.

この建物は明治43年(1910年)ころの建造で,港湾都市・釧路の商業倉庫として使われてきました.小説「挽歌」で有名な作家・原田康子さんの生家が所有していたこともある建物ですが,現在はホクレンの所有です.
構造は木造による軸組にやはり木造の小屋がかかり,そこにレンガの壁が張り付いている「木骨レンガ造」といわれるものです.
浪花町十六番倉庫内観
この建物の改修にあたっては月曜塾のメンバーによる現況調査からスタートしました.調べてみると,建物がかなり場当たり的に建てられたものであること,老朽化していること,構造強度があいまいなことなどがわかりました.しかしそうした建物を限られた予算の中で,なんとか補強し文化施設として再生しなければなりませんでした.正直に言うと,この建物に関わっている間,私は寝ている間もうなされるほどのプレッシャーを感じていました.とにかく古い建物なので,計算しきれない建物の構造強度をどうやって補強するかということが問題でした.結局,木造の軸組を補強する一方で,自立があいまいなレンガ壁をカーボンファイバーを用いて軸組と一体化するという工法をとりました.
鉄扉のディテール
この建物との関わりは,たくさんの試練がありましたが,結果として私にとって郷土の街づくりといったものに深く関与することができたとてもよい機会だったと思っています.
そして,今なおこの施設の運営にあたっている人々の情熱にあらてめて尊敬の念を覚えます.

2006年08月20日

文化の交流点・イスタンブール

イスタンブールは東洋と西洋の混じり合うとても魅力的な街です.
アヤ・ソフィア外観
代表的な建築のひとつにアヤ・ソフィアがあります.
元々はビザンティン様式のキリスト教の大聖堂ですが,15世紀のオスマントルコの征服によりイスラム教のモスクに転用されました.

アヤ・ソフィア内部
内部のドームがある空間は巨大で荘厳です.いまではどこからどう見てもイスラム教のモスクです.

サバパン
イスタンブールを訪れたならぜひ食べて欲しいのが”サバパン”です.ボスポラス海峡を渡るガラタ橋のたもとに屋台船がでていてそこで売っています.油で揚げたサバをバケットにはさんであるだけのシンプルな食べ物ですが,これが絶品です.
トルコは本当にパンのおいしい国です.私がイスタンブールで泊まっていた宿のお向かいはパン屋さんでした.朝,かまどからパンが焼き上がって出てくると,その店の正面のガラスがくもります.それを見て,すぐに買いに行きます.焼き上がったばかりのパンは紙に包んでくれますが,あつあつで手にすると火傷しそうです.炊きたてのご飯がおかず無しでおいしいように,焼きたてのパンもそれだけで食べられます.
生きている間にもう一度食べたい味です.

ベリーダンス
イスタンブールにいってもうひとつ必ず見なければならないのがベリーダンスです.宿の近くのゲストハウスで格安で見られるとあって,行って来ました.アラビアン・ナイトの世界です.

このコラムは本来建築についてのもののはずなのですが,悩み多い人間である私は時々脱線してしまいます.どうかお許しください.

2006年08月18日

釧路の「かお」

釧路の街を代表する「かお」といえる建物はなにか?と問われると,やはり釧路川の対岸から見た釧路フィッシャーマンズワーフMOOかなと私は思います.釧路が生んだ建築家・毛綱毅曠氏によるデザイン(設計は他の事務所との共同)です.
MOO外観
港町に並ぶ倉庫をモチーフにしたスカイラインのデザインはどこか懐かしい感じがしますし,港町特有のにぎわいや,時間や天候によってはちょっとうらさびしい感じもします.毛綱建築の中では,もっとも親しみやすい外観かもしれません.

しかし,商業施設としては建設当初から厳しい状況が続いてきました.理由のひとつに社会の流れがあります.当時,バブルの真っ最中で日本中に第三セクターによるテーマパークができましたが,MOOもそのような建物でした.多くのテーマパークがその後,整理されていったように,MOOも衰退してきました.ただ,釧路の顔を無くしてはいけないという釧路市の強い意向で長らえてきたといっていいでしょう.
同時に釧路では郊外に巨大な駐車場を持つ大型スーパーができ,中心市街地の商業が空洞化してきたことも影響しました.
建築的には,この建物は水辺(ウォーターフロント)にありながら,その水辺側にたいしてほとんど開いていないことも問題のように思います.遠くから見たときの造形は素晴らしいのですが,内部からの街や環境との繋がりがとぼしく,人が集まる商業施設としての魅力が欠けているように思います.
MOO近景
せっかく水辺にあるのだから,それが見える飲食店があったりするともっとよかったのになぁと思います.
また,これも古くからある議論ですが,テナントが観光客相手なのか地元志向なのかも中途半端でした.
私自身は「無印良品」がテナントで入っていたときまでは,ここに買い物に行く機会もありましたが,それが撤退してしまってからはほとんど行く機会が無くなってしまいました.
画像は1階の海産物を扱う店の部分です.
MOO内部
行政もMOOの再建には大きく力を入れているようです.折しも今週いっぱいで釧路から百貨店が姿を消します.中心市街地はますます厳しい状況になるでしょう.
私たち地元の設計者も何ができるか,考え続けていかなければならないと思っています.

2006年08月14日

パルテノン神殿

20代の時の長い旅で,最後に行き着いたのがギリシャのアテネでした.その地のアクロポリスという丘に建つのが古代ギリシャのアテナ神を祭るパルテノン神殿です.
パルテノン神殿

2年にも及ぶ旅の後半,資金も心細くなり,何より私は旅に疲れていました.アジアでは人々は貧しくてものんびりしていて,旅人にも温かかったのに,ヨーロッパではみな忙しく,全然違いました.建物など見るべきものはたくさんありましたが,長い旅の疲れで何を見てもあまり感動しなくなっていました.そんなわけで,最後の3ヶ月ほどはどうやってこの旅を終えようかということばかり考えていました.考えた末,最終目的地に選んだのがギリシャでした.ここから先に行くとしたら地中海を越えてアフリカか,もと来た道をアジアに戻るしかないからです.ヨーロッパ文明の発祥の地に最後に行くという意味もありましたし,なにより航空券が安いということもありました.ドイツのミュンヘンからアテネ行きの国際列車に乗りました.途中内戦状態のユーゴスラビアを抜け,ギリシャに入ると列車は突如遅れはじめ,荒野の中を走っては止まりを繰り返しながらようやくアテネに到着しました.
アクロポリスからのアテネの街

パルテノン神殿の外部を囲む柱はドリス式オーダーと呼ばれる様式です.私が大学の建築学科で最初にレポートに求められたのも,このギリシャ建築の柱の様式についてでした.柱の中央がふくらんでいることをエンタシスといい,法隆寺の柱にも見られることから,遠くギリシャの建築様式の影響であるといわれています.

athen03.jpg

その後,イギリスに行った際,大英博物館で撮影したのがこの画像です.本来パルテノン神殿の正面にある三角の破風部分を飾る彫刻です.世界中からの略奪品を集めたといってもいい大英博物館ですが,この彫刻についても返還運動があるとネットの情報にありました.どうなるのでしょうか.

2006年08月12日

本棚

私にとって現在一番の悩みは,本の置き場所が無くなりつつあることです.この悩みは本好きの私にとって一人暮らしをはじめた学生時代から今日に至るまで,繰り返しつきまとってきました.とにかく増える一方なので,仕方ありません.
NS邸本棚01 NS邸本棚02
画像のNS邸では,あらかじめかなりの蔵書があるとお聞きしていたので,できる限り本棚を作りました.

窓は最小限にして,壁は本棚に利用しています.ただし,トップライトを設けて採光は充分とれるようにしました.吹き抜けに面した手すり部分も本棚にしてあります.気を付けなければならないのは本はかなりの重量があるので,それなりに梁などの構造強度を上げておかなければならないことです.

bsf03.jpg bsf04.jpg
これはKT邸の本棚です.通常の本棚は奥行きが30センチですが,文庫本だと奥行きは11センチで充分なので,左の画像のように壁に埋め込むことも可能です.右の画像は階段の踊り場を利用して本棚を設置した例です.踊り場は天井が高くなることが多いので,それを利用して本棚にするとかなりたくさん収められることができます.ただし,地震の時は踊り場がくずれてきた本だらけになってしまうので,あくまでも本だけにして割れて怪我するようなものは置かないことが前提です.

本好きにとって悩ましいのは,本はいつでも取り出せる状態で保管したいということです.段ボール箱に詰め込んで物置にしまってしまうのでは意味がありません.しかも捨てるに捨てられず・・・というのが困ったところです.私自身は現在の住まいに越してきたときにかなり予算を使って本棚を用意したはずなのに,すでに本の行き場がなくなりつつあります.本当に困ったものです.

2006年08月10日

コレクティブハウジング

釧路町でできたばかりの「遠矢コレクティブセンター」と「遠矢公営住宅」を見てきました.建築設計事務所協会釧路支部での見学会でした.
遠矢コレクティブセンター正面
「釧路町型コレクティブハウジング」の画期的試みです.

設計は北海道を代表する設計事務所アトリエブンクです.
少子高齢化の今日,高齢者のケアをどうするかというのは住環境の上でも重要な課題です.家族が少なくなっているので,家族内でケアすることは難しくなっています.かといって施設に頼るのもマンパワーや財政的な問題で難しいでしょう.だから在宅のまま,地域の中でケアしていこうというのは当然の流れなのだと思います.
遠矢コレクティブハウジング
手前の低層棟が地域交流センターで,奥が公営住宅です.私は当初ここはいわゆるデイケア施設と勘違いをしていたのですが,交流センターは高齢者の方が入りやすいようなお風呂とかの施設もありますが,あくまでも住民同士が助け合い交流することを促すための施設のようです.
遠矢公営住宅
公営住宅の部分ですが,1階が高齢者世帯向けで2・3階が一般向けです.特徴は1階部分は南側に廊下があり,玄関もそちらにありますが,その上の階は北側廊下で南側はバルコニーになっていることです.1階の南側通路は,高齢者の住まいが閉鎖的にならず社会にたいしてオープンになるように,加えて冬期間の蓄熱スペースとして計画されたようです.ただ,実際に見学してみると,真夏のお昼の太陽高度が高い時だからなおさらそうなのですが,住戸の中は薄暗く,暑いから通路側の窓も全開にすると思いますが,そうすると家の中が通路から丸見えになってしまいます.ここら辺の善し悪しは,これから住まう人たちの判断にゆだねられるのだと思います.

このようなコミュニティーの計画において,建築的なハードの工夫はもちろん必要なのですが,もっとも大切なのは人々の交流を促すソフトの部分だと思います.
そういった意味でも,この釧路町の画期的試みの今後に期待しています.


2006年08月08日

マラッカの夕陽

沢木耕太郎「マラッカの夕陽は大きい・・・」ということを何かの本で知って,マラッカに夕陽を見に行ったと「深夜特急」にあったように思います.そして,私はその「深夜特急」を読んでマラッカに行きました.
マラッカの夕陽
実際に体験したマラッカの夕陽は大きいというよりも,自分を取り巻く空気全体が色づくような感じでした.忘れられない体験です.

マレーシアという国は,多様な歴史と民族で成り立つ複雑な国です.もともとその地に住んでいたイスラム教のマレー系の人々に加え,経済や政治では中国系の移民である華僑の人々が影響を持ち,さらにゴムのプランテーションがヨーロッパの列強によって経営されていた頃に労働力として多くのインド系移民が入り,今日に至っています.
マラッカ王宮博物館
画像は14世紀初頭に建設されたマラッカ王国の宮殿を再現した建築で現在はマラッカ王宮博物館になっています.
その後,この地はアジア進出を目指すヨーロッパ各国の前線基地のような意味合いを持ちます.まず,キリスト教を布教したフランシスコ・ザビエルをはじめとするポルトガルがやって来ます.その後,オランダ,イギリスが統治し,第二次大戦期には日本がやって来ます.
クライスト・チャーチ
画像は1753年にオランダ人によって建造されたキリスト教プロテスタントの教会です.

街を歩いていたとき,インド系と思われる少年が,私を見て無言のまま突然財布の中から紙幣を取り出して見せてくれました.初めて見る紙幣でしたが,確かに日本の記述が所々にありました.訳が分からず,おもちゃのお金かとその時は思いました.その脚で博物館に行くと,先ほどの少年が見せてくれた同じ紙幣が展示してありました.旧日本軍が発行した軍票(お金の一種)でした.私はかつての日本がこののどかな地で,どれだけむごたらしいことをしたのか教えられていませんでした.しかし,それと同時にこの国の人たちは日本人に対し同じアジア人としてとても友好的で親しみを持っていてくれることも知りました.実際に足を運んでみないとわからないことはたくさんあります.

「深夜特急」を読んで世界に旅立った若い人は多くいると思います.実際,私もその一人でした.学生の時この本を読んで,こんな旅がしたいと痛烈に思いました.そのようなわけで,この本は私にとって特別な存在です.

今回,マラッカについて調べたところ,一番詳しく参考になったのがTony's Netでした.作者もアジアの魅力に取りつかれたバックパッカーのようで,嬉しくなりました.

2006年08月06日

平和を願って

今日は広島に原爆が落とされて61年目の広島原爆忌です.
私は学生時代に広島を旅して広島平和公園と原爆資料館に行ったことがありますが,その時の印象は今でも強烈に残っています.
東京カテドラル01
画像は広島平和公園を設計した丹下健三による「東京カテドラル」です.

いうまでもなく丹下健三は近代建築において日本を代表する巨匠中の巨匠ですが,昨年91歳の生涯を終えました.その作品は新旧の東京都庁舎,代々木の体育館,フジテレビなどなどどれが代表作と絞りきれないほど多くあります.年表によるとこの「東京カテドラル」は1964年の作品です.
東京カテドラル02.jpg
代々木の体育館もそうですが,空間を構成する構造のダイナミックさがそのまま建築の美しさになっていて,いつも圧倒されます.広島平和公園やこの東京カテドラルのようにモニュメンタルな建築では並ぶ人のいない存在だったように思います.

去年の暮れに東京に行った際は,吉村順三と前川国夫の建築展をみて,丹下健三と村野藤吾の建築を見てくるという,今は亡き巨匠巡りでした.たったの一泊二日でしたが,お腹がいっぱいといった感じになりました.

2006年08月03日

モスクの見学

おそらく世界でもっとも近代的なデザインのモスクがこの「シャー・ファイサル・モスク」でしょう.鋭くとがった4本のミナレットはロケットのようだし.まるで月面基地みたいです.
シャー・ファイサル・モスク
パキスタンの首都,イスラマバードにあります.名前の通り,サウジアラビアの国王シャー・ファイサルからの寄付により建てられました.

イスラマバードは,荒野の中にきれいに整備された道路が延び,近代的な官公庁の建物が散在するかなり人工的な街です.もともとパキスタンの首都は南部のカラチでしたが,場所的に不便だったようでその後この街が造られ遷都されました.実際に人が住んでいるのはラワールピンディという街です.私も宿泊していたラワールピンディからバスに乗って見に行きました.

実はその日は金曜日でした.まだイスラム圏に入って日の浅かった私はうっかりしていたのですが,金曜日はキリスト教での日曜日と一緒で,イスラムの人々は仕事はお休みでモスクに礼拝に行く日なのです.通常,礼拝には異教徒は入れませんから,モスクを見に行こうとしたら金曜日はさけた方がいいのでした.ところが運が良かったのはバスの中でラジオ局のディレクターだという人が話しかけてきて,結局その人がモスクを案内してくれることになりました.彼の解説で,アラビアのお金持ちの寄進によって建てられたこと,デザインはテントがモチーフになっていることを知りました.砂漠の民はテントを張ってその中で礼拝をしたことが由来だそうです.
モスクはどこもそうですが,まず中にはいる前に水場があってそこで手足を洗い身を清めます.中にはいると,人々は床に座っていて,イマーム(導師)のお説教を聞いていました.で,そこからが大変でした.突然全員が立ち上がり,整列しだしたのです.そしてあの立ったりひざまずいたりのイスラムのお祈りが始まってしまったのです.私は必死でした.周囲の人のしぐさを見ながら一生懸命真似をしてお祈りの動作を繰り返しました.なにせみんながひざまずいているときに一人だけ突っ立っていられませんし,おまえは異教徒だろう!とだれかに追求されるのではないかと思ったからです.
お祈りの後
これはお祈りの後,三々五々解散していくところです.なかなか貴重な体験でした.
モスクを見に行くときに気を付けなければならないことは,写真をみるとわかりますようになにか帽子をかぶった方がいいし,短パンはさけた方がいいと思います.パキスタンの男が来ている服は「シャルワール・カミス」といい,薄い綿でできただぶだぶの服です.上のシャツはものすごく長くて膝のあたりまであるのが特徴です.で,実はこの服が暑いパキスタンの気候では一番涼しく感じるのです.私も一着しつらえて,旅行中着ていました.
シャー・ファイサル・モスクのミナレット
なお,モスクに大概つきもののこのミナレットですが,もともとは人々に礼拝の時間が来たことを伝えるためにできたそうです.実際,私が泊まったペシャワールという街の宿では,近くにモスクがあり,朝のまだ暗いうちから毎日大音響で礼拝の開始を告げる声が流れ,必ず目が覚めるのでした.